昭和16年8月、文部省は「学校報国団体制確立方」を訓令し、それを受けて県でも同月、「報国隊事業ニ関スル件」を通牒しました。これは従来の校友会にかわって「学校報国隊」を結成せよというものです。それにより、各クラスが小隊、一学年が中隊、数学年が大隊として編成されました。
『静岡県教育史』に、当時の志太中学校の様子が記録されています。
日華事変以来学校の中にも軍国主義調が濃くなり予科練、海兵団の募集ポスターがはられ、学校教練は日々盛んになり、分隊教練戦闘教練が激しく行われるようになる。学校の制服もステーブルファイバーのカーキ色国民服型に指定され、通学には巻脚絆(きゃはん)をつけることになった。校友会は学校報国隊へと編成替えされ、日米開戦(昭和16年12月 引用者注)とともに、庭球部・排球部・籠球部が廃止されてかわって国防競技・相撲・弓道・滑空部がうまれた。
(『静岡県教育史』通史編下)
昭和13年4月の入学生から、制服は国防色の折襟形になりました。
志太中学校発行の『学友会誌』も『報国』と名前が変わりました。第15号(昭和18年3月発行)から、報国隊の班活動(従来の部活動)の様子をみてみましょう。
従来の部活動は、鍛錬部、国防訓練部、学芸部に分かれ、その下に、従来の「部」に相当する「班」が設けられました。鍛錬部は従来の運動部、学芸部は文化部です。国防訓練部は、この時新たに加えられました。
鍛錬部は、剣道班、弓道班、相撲班、蹴球班、陸上競技班、水泳班、健脚班の七班でした。『静岡県教育史』にあるように、弓道班と相撲班はこの時新設されたものです。健脚班の活動は記録がなく不明です。
国防訓練部は銃剣道班、滑空班、国防競技班、射撃班の四班構成でした。滑空班は実際にグライダーを飛ばしたようです。
四月の初めにささやかではあったが、然(しか)し厳粛な滑空機命名式が挙行された。我々は新たに命名された志太中第一号機の真新しい機体に触れては、何とはなしに喜びの微笑が頬に登ってくるのを禁じ得なかった。 ……この日我々は初めて機上の人となった。このごろは毎日のように放課後遅くまで訓練するようになった。
(活動報告より)
国防競技班は手榴弾投擲(とうてき)突撃組と障碍(しょうがい)組に分かれていました。記録によれば手榴弾投擲突撃、牽引(けんいん)競争、行軍競争、土嚢(どのう)運搬、障碍通過など、様々な種目があり、県大会を突破すれば橿原神宮(かしわらじんぐう)大会や明治神宮大会などの全国大会に出場できました。
学芸部は文芸班、科学班、詩吟(しぎん)班、絵画班、工作班、書道班、園芸班の七班から成っていました。園芸班、非常時に園芸とはどういうことでしょう。
四月には藤棚の所の花壇に落花生を、また空き地に小豆を播(ま)き、六月には豌豆(えんどう)、キャベツ、玉葱(たまねぎ)を、十月には甘藷、落花生の収穫を得た。……この一ケ年常に吾等は土に親しみ、作物と共に生活してきた。
(活動報告より)
つまりは食糧増産のための活動だったのです。
昭和19年8月、学徒勤労令によって五・四・三年生はそれぞれ藤枝(朝比奈鉄工所)、静岡(住友金属)、清水(日立製作所)の各軍需工場に通年勤労動員されました。敗戦一年前のことです。
【参考資料】『静岡県教育史』通史編下
『報国』(第一五号 昭和一八年三月)