明治以降の学校制度はたびたび変更されましたが、本校創立時期の大正期における初等・中等教育学校は概略以下のようなものでした。
中学校はその後に続く高等学校・大学に接続する、所謂エリートへつながるほとんど唯一のコースとして位置付けられ、入学競争率も高くその準備のための勉強の過熱ぶり(受験教育)が社会問題にもなっていました。尋常小学校から中学校へ進む生徒の割合はきわめて少なく、本校創立の大正一三年、小笠郡では、男子の一五%が進学したにすぎませんでした。大半は高等小学校に進み、その後実務についたのです。当時中学校へ進学するものは「選ばれた人材」だったのです。
志太中学校創立前、静岡県には以下の九校の中学校がありました。( )はそれぞれの流れを汲む現在の高校です。
そして大正13年、
とともに、
が開校したのでした。つまり、志太中学校は静岡県下で最後につくられた中学校だったのです。
ここ藤枝の地(当時は藤枝町)に中学校を設置したいという希望は志太郡下の人々にとっては悲願であり、各町村長も設置認可に向けて多大な努力を惜しみませんでした。地元藤枝町は校舎敷地8000坪と金5万円を提供しました。また、焼津町他郡下の25町村からは金3万円、藤枝町有志48人からは合計金15万6千円の寄附があったということです。
【参考資料】『静岡県教育史』『静岡県史・通史編5』『学友会誌』第六号