藤枝東高校の歴史 藤枝東高校 80年史 藤枝東高国語科通信「まざたん」より 藤枝東高教頭(45回卒)松本 泉

(2)校舎の建設と松並木

大正12年2月
藤枝町市部区千南原に校舎敷地8000坪を選定、地均工事に着手
大正13年7月7日
大正12年度建築工事にかかる校舎本館竣工
大正13年9月6日
開校式挙行
大正13年12月17日
大正13年度工事にかかる校舎中館の一部、排水工事竣工

大正13年4月7日、第1回入学式が挙行され、2学級108人(定員100人)が入学しました。しかし学舎(まなびや)は仮校舎でした。前年の2月から始まった校舎建築は急ピッチで進められてはいたものの、完成にはまだほど遠い状況だったのです。 初代校長の錦織兵三郎(にしごりへいざぶろう)氏「松下村塾(しょうかそんじゅく)の昔も偲(しの)ばるヽ仮校舎」と述べていることから、当時の教室の様子が窺(うかが)えます。みんな新校舎の完成を一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待ちこがれていました。
一学期末の試験だけでも新校舎で行いたいとの一同の希望で、半分だけ完成した本館に「多少の無理をして移転した」のが7月11日でした。職員と生徒は勇躍して机や教卓を運びました。引っ越しが一段落し、内祝いの茶話会が職員室で開かれました。机一つない板の間にアグラをかき、第1回入学生全員が教師とともに煎餅(せんべい)をかじったそうです。
新校舎への移転は済んだものの、8000坪の校庭はまだ「荒野の如(ごと)き姿」でした。このまま夏休みに入るわけにはいかない、ということで、翌12日から連日放課後は草取りです。100人で8000坪、1人80坪の除草ですから、炎天の下での1年生の仕事としてはかなりの重労働だったでしょう。

夏休みも終わった9月6日、藤枝町をはじめ志太郡下各町村有志の方々が多額の出費をしてくださり、盛大な開校式が行われました。当日の夕方は門前の東海道筋で講談や演劇など多数の余興が行われ、さながら飽波(あくなみ)神社大祭のような賑(にぎ)わいだったということです。これは白子、市部を中心とした町有志の方々のおかげだと、錦織氏は思い出を語っています。

さて、以下はグラウンド西側、テニスコート沿いの松並木に関わるエピソードです。当時の教諭白井和一郎氏によればあの松並木には次のようないきさつがあったとのことです。
白井氏は職員会議で松の植樹を提案しましたが、錦織校長は賛成しませんでした。ある日、全校の草取りをしていたとき、第1回入学生に混じっていた白井氏は「俺はこの線に松を二列に植えたいのだが校長がきいてくれないから、君等の卒業するときに、是非記念樹として植えていけ。この白い校舎に亭々(ていてい)と聳(そび)えた一列の翠松(すいしょう:みどりの松)の映ずる20年後を想像してみよ。君等はそのころ1年生に入学する倅(せがれ)に、これはお父さんの卒業するとき植えた記念樹だぞと誇らしげに語ることだろう」と語りかけました。草取りに疲れてきた生徒たちがガヤガヤと賛成の声を挙げていたとき、いつの間にやって来たのか、一同の裏に立っていた錦織校長が、突然「白井君植えるよ、植えるよ」と言い出したのです。かくして、現在の場所へ松の木が植えられたということです。
『学友会誌』第六号(10年記念誌 昭和9年2月)掲載の「沿革(えんかく)」には次のように記されています。

大正十四年三月三〇日 防風林植樹並学校園ヲ設置シ花卉(かき)ノ栽培ヲナス

【参考資料】『学友会史』第六号


注 松下村塾:
江戸時代末期、長州藩にあった私塾。
叔父が自宅で開いた私塾を吉田松陰(よしだしょういん)が引き継いだ。
門下から、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)らが出て、 明治維新の原動力となった。

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