藤枝東高校の歴史 藤枝東高校 80年史 藤枝東高国語科通信「まざたん」より 藤枝東高教頭(45回卒)松本 泉

(12)終戦から新しい学制の誕生(その3)
東西両教場の分立、藤枝東高の誕生

志太高等学校と藤枝高等学校を統合してできた藤枝高等学校は、東教場と西教場が並立した、統合とは名ばかりのものでした。
藤枝高等学校創立三年目、東西両教場の分立問題がでてきました。その様子を当時の学校新聞『藤高新聞』(第23号 1952年3月16日付)から見てみましょう。
一面に大きく次の見出しが踊っています。

東西分立  今春実現ほゞ確実   県教委で内定

リード文は以下のとおりです。
「本校の将来を決定する分立問題はその後の県当局との交渉の成り行きが各界から注目されていたが、交渉はかなり進展し、すでに県教育委員会の内定をみるに至り、来春四月から分立問題が殆(ほと)んど確定的となった。……」

続いて「各界の反響」として、五人の意見を載せています。一部を紹介します。

PTA会長 この統合には両教場共に始めから反対であった。……校名は特別に望むことはないが、校名は特に志太中だからということにこだわる必要はなく藤枝町にあるのだから藤枝東、西高でいゝと思う。
千野忠男君 両教場の内容、男女の性格、進学などの面の相違から統合というものが始めから無理であったのだから、今度の分立ということも必然であろう。……

「生徒側の動き」として東西合同委員会の様子が報告されています。
東側委員からは、「両教場の交換授業、学校の経営上の点、統合による利益、校友会その他の合同の活動などの点から」分立賛成意見が出されました。西側委員からは「増改築問題にからんだ経済的な面、それに一校内で教育目標が二つあることなどの点について」分立に賛成の意が表されました。採決の結果は分立賛成が三九、反対〇、保留一でした。
さらに東西両教場の生徒大会の模様も報告されています。東教場では賛成の理由として「現状維持は全然意味がないから、完全統合かあるいは分立を望むが種種の事情から完全統合はほとんど絶望の今日では分立もやむをえない」との意見がありました。一方西教場では、卒業生となる三年生から、共学授業で「私達は相当啓蒙(けいもう)されプラスであった」と分立反対の意見が出されました。「校友会でも東西協同性が強い新聞部」からは「結局分立したらどうにかやっていけるのではないか。女だけの記事、家庭的な記事と新聞の内容を一変したものになると思うが、他の校友会の東西連絡等不可能な部がほとんどの様である点等を考慮して私達の部としてはやろうとすればやれない事はない」との決意が表明されました。

「分立問題と今後の課題」と題された、「論説」では、次のような主張がなされています。
「元来本校の校舎はかなりの距離を隔てた二つの校舎をそのまゝ強行したゞけに、今回の結果は必然であり、時宜(じぎ)を得たものである。」また、この問題に対する生徒側の対応には「一体に本校全体空気として生徒自らの問題としてあらゆる問題に対処し、解決していこうとする意欲の乏しいことを今回の分立問題に当たって表した事を物語る」と苦言を呈しています。そして、新体制で迎える新年度の課題として、生徒会組織と新規約を挙げ、「今後両校が肩を並べて競い合いつゝ種ゝの形で弾力的な交渉を続けて行」きたいと結んでいます。

昭和27年4月1日、東西教場は分離独立し、藤枝高等学校東教場は藤枝東高等学校と改称しました。この春、一年生260名(男子245名 女子15名)が入学しました。志太中学校から数えて第28回目の入学生です。

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