第14回卒業生(昭和17年卒業)の竹島清氏は次のように語っておられます。
思えば私たちの世代は、戦争と固く結びついた世代であった。小学校に入学した年に満州事変が始まり、中学に入学した年に日中戦争となり五年生の時に太平洋戦争に突入した。大学高専に進学すると学徒出陣に遭遇し、多くの先輩と学友を戦争で失った。
哀惜 痛恨の極みである。
昭和20年8月、敗戦。 幸いにも戦災を受けなかった学校には、動員先の上級生や予科練に行った生徒たちが帰ってきました。食糧難で弁当もろくに持って行けず、教科書も薄っぺらでした。疎開や戦災や引き揚げのために転校生が多くて教室には机が入りきれませんでしたが、ともかく学校に平和がおとずれたのです。作家の小川国夫氏(昭和17年志太中学校入学)もこの時期を志太中学校で過ごされました。
前同窓会長石田哲夫氏(昭和26年入学)は次のように語っておられます。
昭和二六年に入学した藤枝高は、志太高と藤枝高(蓮華寺池畔の旧制藤枝高女、現西高)を統合した学校だが、統合とは名ばかり。元のまヽの校舎を東教場西教場と称しただけで、行事も授業も、大半は以前と同じく教場別、男女別だった。が、教科によっては、先生が自転車で両教場を往来されたり、生徒がぞろぞろ移動した授業もあった。時たま西教場に行くと、女生徒群の前で小さくなっていた記憶がある。(中には、この時とばかり張り切っていた男もいたが……)
統合時に藤枝高女に入学し、東教場に移って男子生徒と混じって学習した女生徒も三名いました。男女共学の先駆けです。
石田氏の回想から……
その中の一人(女生徒)はこう回想している。窶披買vライドは持っていたが、女だからといって特に構えることはなかった。何事も男子に負けまいと頑張っていて、けっこう楽しかった。むしろ気を遣(つか)ったのは先生方ではなかったか。修学旅行の時には、女の子に何かあってはと、校長先生の奥様が同行されたりして窶披鐀
修学旅行に校長先生の奥さんが同行、確かに先生方の気遣いは並大抵のものではなかったでしょう。 藤枝高校2回生(通算24回生)ー藤枝東高6回生(通算31回生)の女性だけのOG組織「藤東女(ととじょ)の会」があります。会員80余名、最年少65歳。二年に一度、楽しい交流会を開いておられるとのことです。
【参考資料】『同窓会報 千南原』第一八号 平成一六年一〇月