藤枝東高校の歴史 藤枝東高校 80年史 藤枝東高国語科通信「まざたん」より 藤枝東高教頭(45回卒)松本 泉

(11)終戦から新しい学制の誕生(その2)

志太中学校から藤枝東高誕生までの経過をまとめれば下のようになります。


戦前の中等学校は男女別学でした。新制高等学校は男女共学が基本でしたから、志太中学校の近隣に位置する藤枝高等女学校との統合は当然の成り行きでした。その結果、志太高等学校はわずか一年で終わり、藤枝高等学校が誕生したのです。
教科書や問題集の購入でいつもお世話になっている、白子通りの前田書店の店主前田俊夫氏はたった一回の志太高校入学生。当時の混乱した制度の様子を次のように語っています。

旧制志太中学校から新制志太高等学校への移行によって、修業年限が一年延長されるので、旧制中学校五年で卒業するものもいた。戦後で経済状態や教育事情も悪い時期だったので旧制中学校四年終了で(上級学校へ合格したためではなく)卒業扱いが認められ、四年修了者と五年修了者の二回の卒業生が同じ年に出た。旧制志太中学校の一、二年生は、新制になって、併設中学校へ通った。
また、新制高等学校には陸軍幼年学校等から帰ってきた者もあり、年齢は様々だった。授業は、教科書がないので教師のプリントや板書をノートに写した。

統合された藤枝高等学校は、実質は東教場(男子)と西教場(女子)とに分かれており、 授業もほとんどは男女別に行われたので、男女共学が実現したとはいえませんでした。昭和24年に藤枝高等学校に赴任された、元教頭の池谷利之氏(数学)は統合時の状況を次のように語っておられます。

西教場の女子十数名が「解析Ⅱ」(主に微積分)の授業を受けるため東教場に来て男子と一緒に学習した。彼女らは大学受験のため「解析Ⅱ」が必要であったが、西教場では選択者が少なく、授業集団が成立しないため、東教場へ授業を受けに来た。そうした特例以外は、東教場の男子と西教場の女子が一緒に授業を受けることはほとんどなかった。
また、西教場では「一般数学」の集団数が多かったので、私が授業をしに行ったこともあった。一般に、東教場の教師が応援に行くことはあったが、西教場から東教場に教えに来た教師はあまりいなかった。

昭和26年5月30日付け『藤高新聞』の一面に生徒会発足の記事があります。見出しには「本年度生徒会漸(ようや)発足す 東西分立して活動へ」とあり、委員長・副委員長など人選も東西両教場が独立して行っていたことがわかります。統合とはいえ、二つの学校の並立というのが実態でした。

【参考資料】 藤枝東高校職員紀要『文集』(一四号 一九九一年)

ページTOPへ

藤枝東高校の歴史

【お問い合わせ】同窓会事務局

【住所変更】ご住所を変更された場合はご連絡を

【同窓会会報】 同窓会会報千南原をPDFにてご覧いただけます。

【校歌・応援歌】 校歌・応援歌を視聴できます。

【写真館】 懐かしい写真を掲載しました。