二年目、新入生が入りました。皆やる気十分。骨まで凍るような寒い朝も、早く登校して全校生徒が二組に分かれて試合をしたり、昼休みもボールを蹴ったそうです。「朝練」、「昼練」、「夕練」と、すごい練習ぶりです。さすがにこれでは勉学に差し支えがあるということで、「昼練」は学校から差し止めになりました。
二年目もそろそろ終わりという、大正一五年二月七日、待望の校外試合が実現します。静岡高校(旧制。現・静岡大学)主催の蹴球大会に参加したのです。出場決定までは校内で議論があったそうですが「将来の為」と、学校が許可しました。200名の中から22名が選ばれ、猛練習を開始しました。
出場校は静岡中学校(現・静岡高校)、浜松第一中学校(現・浜松北高校)、浜松師範学校(現・静岡大学教育学部)、名商(正式名称は不明 愛知県の商業高校か)、そして志太中学校の6校です。志太中は初戦に浜松第一中学校と対戦しました。二年生までしか生徒がいないのですから、苦戦は免れないところです。
以下は一回生の日記(『学友会誌』創刊号「部報」より)の記述です。
二月四日 晴 蹴球大会も迫ったので最早精力を蓄えるのみ。軽い練習に止む。掲示板に浜一中対本校とあるを見て、何の浜一中位(くらい)がと元気旺盛。若人の血湧(わ)き肉踊る。武者震いその日を待つ。
「初陣(ういじん)で浜一中を破ったのだ。嬉しかった。全く嬉しかった。全校集(つど)って勝利を喜んだのである」と、初の対外試合の勝利の喜びを書き綴っています。
志太中学校蹴球部初の全国制覇は昭和6年の東京文理科大学(後の東京教育大学 現・筑波大学)主催の全国中等学校蹴球大会でした。当時の石井午二校長は『学友会誌』第4号(昭和7年2月)の巻頭の辞で次のようにその感激を述べています。
「何としても、忘れることの出来ぬ歓喜は、東京文理科大学主催、本年度全国中等学校蹴球大会に於ける我が校の優勝である。連戦連勝、強豪34校を破って東部日本の覇権を把握し、多年の宿志を達して鮮やかな全国的飛躍を示し得るに至った一大快事は、我が校運動史上空前の盛時である」
当時の蹴球部員の「感想文」を資料に、この大会を再現してみます。
以下は凱旋の様子です。
主将原崎君の英姿が先頭に現れた。此時には提灯は赤々と灯された。自然に起こる万歳の声。それこそ感謝と喜びと祝いと疲労の印であった。校歌、応援歌も選手諸君には如何に響いたことだろう。歌う学友も涙ぐんだのであった。(略)夜のとばりに被われた中で駅頭の燦然と輝く幾十の電灯の光を浴びて迎えられる者と迎える者との感激の光景であった。それから行進は起こった。(略)
【参考資料】『学友会誌』(創刊号・第四号)