志太中学校が創設された大正末期は、日本が日中戦争や太平洋戦争などの国際紛争に関与していく時期でした。教育も否応なく戦時下の体制に組み込まれていきます。創立の翌年、大正14年4月には「陸軍現役将校学校配属令」が出され、公立の中等学校以上の学校に将校が配属されるようになりました。そして、学校では軍事教練が始まったのです。軍事教練の成果は年一回の「教練査閲」で評価されました。「教練査閲」とは軍からやってくる査閲官が、各学校の教練の成果を視察・評価するものです。当日は一年生から五年生まで、全校生徒が丸一日、日頃の軍事教練の成果を見せ、その評価を受けました。 以下、昭和10年11月5日の「教練査閲」の様子を、五年生に語ってもらいましょう。
校長先生のご紹介によって、査閲官殿は壇上に立たれた。
「本日命により、本校の教練査閲にまいった。査閲に来たのは諸君を怒りにきたのではない。ただ、諸君の教練の状態を見に来たのであるから固くならないで平素の気持ちで立派にやってもらいたい」。これより一年、二年と逐次(ちくじ)査閲は実施されていく。
五年生の査閲は服装検査より始まる。続いて各個教練、我が第一班は立射の姿勢、連日の稽古により、技については遜色(そんしょく)はない。第二班はB組全体で歩哨(ほしょう)。第三班は五年生全体の戦闘教練。第四班は密集教練。今日の査閲の花、閲兵、分列が最後になされた。最後に講評。
「本校は一昨年、昨年と優秀であったが、本年も優秀である。実に立派だ。校長先生が絶えず注意せられている『誠』ということが学校全体に染みこんでいる」
優秀の一語を聞いたとき、万感胸に迫った。先輩の偉業継承の喜び、志太中学校の名をあげ得た喜び、その栄冠の裏にはあの連日の努力奮闘、ある時は一日に五時間もやった。ある時は祭日もやった。「苦しみを経ての喜び」。今日の査閲によって感を深くしたこの教訓を、すべてのことに用いようと力強く決心した。
この文章は『学友会誌』に掲載されたものです。全部で22編あり、一年生から五年生まで、それぞれの学年に応じた査閲の状況と将校の講評への感想が述べられています。この年はどの学年も「優秀」(昨年、一昨年に続く三年連続)との評価をもらったようで、いずれの生徒もその喜びを語っています。また、表紙に続くページには査閲当日の写真も載せられており、いかにこの行事が重要だったかがわかります。
昭和10年度の「教務日誌」から時局を窺わせる記事を拾ってみましょう。
このような記事が並ぶと、戦時色が色濃く投影した暗い学園生活だったようにも思われます。しかし、『学友会誌』には部活動の戦績や修学旅行記、体育大会記なども例年通り掲載されています。生徒たちは当時の時局をどのように感じながら志太中での学校生活を送っていたのでしょうか。
【参考資料】 『静岡県史』通史編六 近現代二
『学友会誌』(第九号 昭和一二年)