藤枝東高校の歴史 藤枝東高校 80年史 藤枝東高国語科通信「まざたん」より 藤枝東高教頭(45回卒)松本 泉

(8)戦時下の教育(その2)教練査閲

昭和13年4月国家総動員法が公布されると、教育の面でも「国家総動員上必要ナル教育訓練ニ関スル業務」がかかげられ、中等学校以上の学生生徒に夏季集団勤労作業が実施されることとなりました。

志太中学の昭和15年の「学校日誌」には次の記述があります。

7月22日   夏季集団勤労作業開始八月九日マデ継続

瀬戸川河川敷で毎日二時間、約百坪の畑地を開墾しました。ちなみに8月9日までは「夏季心身鍛錬期間」とされ、勤労作業の他に「学科指導」「神社清掃作業」「閲兵分列」「教練」「健脚行軍」「宿泊訓練」「登山」など、さまざまなメニューが用意されていました。
「神社清掃」は藤枝町内の10社を二日間清掃。「健脚行軍」は全校生徒520人、全職員16名が静岡市丸子の吐月峯(とげっぽう)まで歩くもので、午前8時出発、午後4時帰校というハードなものでした。「宿泊訓練」は藤枝市の蓮生寺に、三年生以上の生徒が一学級ずつ、一泊二日で実施されました。「登山」は富士登山。7月26日午前4時57分藤枝駅発、27日午後5時52分藤枝駅着。職員2名に引率されて、生徒36名が参加しました。

昭和14年になると、勤労作業は夏休み期間中だけでなく、それ以外のときにも必要に応じて課され、生徒は農村労働力の不足を補う役目を負わされるようになりました。同年六月、静岡県は「学校生徒児童ノ生産力拡充計画ニ対スル協力ニ関スル件」を通牒(つうちょう)しました。これにより、農繁期等に応じて学生生徒を農林、水産関係の作業に動員できるようになったのです。特に農業は田植えや稲刈りの時期の労力不足に対し、学徒の勤労作業におおきな期待がかけられました。

昭和17年の「学校日誌」より

6月17日  国民勤労協力令に依る町村への勤労奉仕開始
11月16日  食糧増産勤労奉仕作業に4年生出動

6月は田植え。期日は6月17、18日、及び6月26、27、29日。近隣の九町村に延べ1,276人が出向きました。11月は稲刈りです。11月16日、18日~21日。五町村に延べ1,358人が農家の手伝いに行きました。
この年は校舎の増築をやっており、その作業も生徒の手によって行われていました。学級増加に伴う六教室の増築、生徒控所、銃器室、生徒自転車置き場などです。当時の溝口校長は「我らの学校は我らの手によって建設する」と全校に呼びかけたのです。それに応じて、生徒たちは毎日一学級が交代で瀬戸川からコンクリート用の砂利や砂を荷車で運搬。他の生徒は放課後に基礎工事用の石や砂利を運びました。

この様子を語った一年生の作文があります。題は「石運び」。

「よいしょ」と大きな石の入った石箕(いしみ)を持ち上げる。ここは瀬戸川である。(略)僕達の組が先頭となって帰校の途につく。春とはいえ、骨を凍らす西北風は、僕達の手、耳、頬に容赦なく吹きつけ膚を刺す。殊に手は石箕の重さも加わって、ちぎれんばかりである。手袋のない故であって、あかぎれを侵(おか)す風に泣き出したくなる程の痛さだ。賑(にぎ)やかな東海道沿いの商店を眺めたり、時々は大空を見上げながら、一路学校へ、学校へと歩みを進める。(略)やがて「歩調を取れ」の号令がかかる。やっと学校へ着いた。そう思うと、一時に手の痛さが、前より一層強く感じられる。(略)

【参考資料】『静岡県教育史』通史編下
『学友会誌』(第一三号 昭和一六年三月)
『報国』(第一五号 昭和一八年三月)

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