藤枝東高校の歴史 藤枝東高校 80年史 藤枝東高国語科通信「まざたん」より 藤枝東高教頭(45回卒)松本 泉

(5)校歌の制定

大正一五年五月
このころ校歌制定か。

本校の校歌はいつ制定されたのか。残念ながらその経緯を述べた一次資料はないようです。以下、第20代校長小倉勇三氏(平成9年4月~11年3月在任)の論文をもとに、校歌制定にまつわる話題を紹介します。

(1)制定の経緯

作詞石山脩平(いしやましゅうへい)、作曲佐々木英(ささきすぐる)。二人はいずれも浜松師範学校の教官、初代校長錦織(にしごり)氏の同僚でした。錦織氏は志太中学校赴任前は浜松師範学校の教頭をしていたので、この二人をよく知っていました。石山氏は25、6歳。佐々木氏は32、3歳の若さ。錦織氏は県内先進中学校に伍して教師・生徒が一丸となって「新興の意気」(三番の歌詞の冒頭「見よ新興の意気高く」)を県下に示して欲しい、そんな思いを二人の若き才能に託したのです。

(2)制定の時期

校歌の制定式、発表会という制定に関する行事の記録は見つかりませんが、校歌を「練習」した記録は残っています。大正15年5月21日。この日の「教務日誌」に、「放課後、全校生徒で、校歌を練習する」という記述があるのです。校歌の練習はこの日を初日として、この年、15回行われました。「教務日誌」によれば、次の年(昭和2年)に一年生が2回、その後全校で6回練習をしました。大正13、14年の「教務日誌」には「校歌練習」の記述がないところから、小倉氏は校歌制定の時期を大正15年5月と推測しています。

(3)作詞 石山脩平氏

明治32年、浜松市生まれ。教育学者。東京教育大学(現筑波大学)教授。61歳で没する。

浜松師範学校時代は学力、人格とも優れた生徒で、学友たちの敬慕の的でした。文才も傑出しており、師範生活のいろいろな節目に、石山氏が生徒代表として文章を書いています。新入生を迎える日には「歓迎のことば」、長距離走の日は、その檄文(げきぶん)「校友諸君に檄す」。友達が亡くなれば、それを悼む「亡友を弔う」を書き、同窓会発足に際しては、「同窓会宣言」を担当しています。中でも、浜松師範学校卒業時、卒業生総代としての答辞はその文章の品格、精神の高潔さ、感謝と決意の思いの深さにおいて、すべてを圧倒する文章と、小倉氏は評しています。錦織校長は当時、この答辞を耳にしていたでしょうから、作詞に石山氏を依頼した気持ちは想像がつきます。

(4)作曲 佐々木英氏

明治25年、岩手県生まれ。浜松師範学校に勤めた後、作曲家を目指して上京。やがて、レコード会社・コロンビア専属となり、戦中、戦後を通じて多くの童謡を作曲。よく知られているものに、「月の沙漠」「お山の杉の子」「青い鳥」などがある。昭和41年、74歳で亡くなる。

「月の沙漠を はるばると 旅のらくだが ゆきました・・・・・」名曲「月の沙漠」の歌詞は、上京した翌年、大正一一年三月『少女倶楽部』に掲載されたものでした。無名時代の佐々木氏は書き上げた曲をガリ版刷りの楽譜にして小学校に配り歩き、その枚数は600枚に達したということです。

(5)汽車ノ中ニテ合唱スルコトナキヨウ

昭和2年10月3日、錦織校長は朝礼で「尚(ナオ) 汽車ノ中ニテ 校歌等合唱スルコトナキヨウ注意ヲ与ヘ」ました(「校務日誌」より)。前日に中学校武道大会があり、その大会に参加した選手や応援の生徒が車中で校歌等を歌ったことへの注意でした。このときは校歌ができて2年目ごろ。試合にはやる気持ちからつい元気に歌ってしまったのでしょう。「ほほえましくも感じた」とは小倉氏の感想です。

【参考資料】藤枝東高校職員紀要『藤繚』(第22号 1999年3月)

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