初代校長錦織(にしごり)兵三郎氏が開校当初からサッカー(蹴球)を校技と定め、全校生徒に奨励したことはよく知られています。
開校当時の蹴球部の様子はどうだったのでしょうか。そのことについて語る前に「静岡県の蹴球事始め」についてまずお話しします。
日本にサッカーが伝えられたのは明治6年のこと。海軍兵学校寮に迎えられていた英国海軍兵によって紹介されたのが初めだとされています。
静岡では大正の中ごろ、静岡・浜松両師範学校(現静岡大学教育学部)に蹴球部が誕生しました。大正8年には奈良師範学校の生徒が修学旅行で来静したおり、静岡師範と試合を行いました。相手は専用の蹴球靴だったのに静岡師範側は普通の体操靴、ルールもあまり知らずに惨敗したそうです。
その後、各校で蹴球部が相次いで創設されました。その中で志太中(現・藤枝東高)は大正13年の開校と同時にサッカーを「校技」と定め、生徒たちに大いに奨励しました。これが昭和30年代に開花する「藤枝時代」の基礎となりました。
以来、学校、クラブ、職場などで愛好者が増え、底辺の拡大とも相まって、各地にサッカー協会が結成され、 「サッカー王国」の今日の基礎が築かれました(静岡新聞 平成10年6月21日付け 県立中央図書館「お答えします」より)。
初代校長錦織氏はサッカーを校技と定めたいきさつをこう語っています。
「運動競技の目的は体育の振興と精神作興(さっこう)の二方面である。時間浪費が少なく比較的短時間に達成するものが望ましいので、当時行われていた(陸上)競技・庭球・野球の長短を厳に考慮したうえ、特に精神作興をバックとしながら運動量・男性的進取の気性・連帯共同性及び未発達競技の将来性への期待からサッカーを校技として奨励した」。
前記のとおり、当時の静岡県ではサッカーはまだまだ「未発達競技」でしたから、県下に際だった強豪校もなかったと思われます。サッカーならば県下一、あわよくば全国に名を馳せることもできるかも……と錦織校長が思ったかどうかはわかりませんが、とにかく、「全校でサッカーをやるんだ!」と号令をかけたことには間違いありません。
さて、それでは当時の蹴球部の活動はどのようなものだったのでしょう。一回生に語ってもらいましょう。
「創立当時の蹴球部、未(いまだ)だ仮校舎に居(い)る時分である。運動場はない。為に小学校のグランドを借りて練習した。他に運動部と云う様なものが無かったから、全校生徒が蹴球をやった。全校生徒と云っても僅(わず)か百名内外で、それが甲乙丙組に分かれて居(お)り、隔日に練習した。
上級生はなし、又近所に蹴球をやって居る所もないので、何が何だか一向(いっこう)分からなかった。浜師(浜松師範学校)の人々がその頃指導に来てくれた。
二学期になって新校舎に移った。お陰ですばらしい広大な運動場を与えられた。併(しか)し雑草が生い茂って居る。大きな石が草の中にゴロゴロしている。移転早々運動場の大整理である。其(その)結果、蹴球場が二つできたので、100人が8組に分かれて毎日練習が出来た。練習といっても其の頃は大きなサークルを作って蹴るか、又は試合をするより他になかった。
現蹴球部長山口先生は、その頃まで、ワイシャツに白パンツ、赤に黒線の入ったストッキングと云う勇姿で毎日指導してくれた。又生徒は誰も毎日かならず2時間は練習した」。
全校生徒が蹴球部員、部員100人。なんだかすごい状況ですね。「さすが藤枝東の前身」という気もします。練習の方法もまだ手探り状態だったことも窺(うかが)えます。
【参考資料】『藤枝東高サッカー六〇年史』