平成10年10月20日
校 長 小 倉 勇 三
校門を入ると、左手の植えこみに。サッカーボールを蹴る青年の像が立っている。青年は、ゴールに向かってまっしぐら、今しも、ゴールにボールを蹴りこもうとする。その一瞬の動きを、荒々しいタッチで、力感豊かに造形している。
台座のプレートに、「蹴上王者」と刻まれている。「しゅうじょうおうじゃ」と呼ぶ人もいれば、「けあげおうじゃ」と呼ぶ人もいる。
この像の由来は、台座の裏側に記されている(写真2)寄贈者は、「藤枝東高等学校 第十七回 卒業生」。今から三十年前、昭和四十三年度の卒業記念の像である。。
制作者は、井出 芳志(ほうし)さん。井出さんは、学校近くの「仏具店:かなわや」のご主人で、当時常葉学園短大の美術・デザイン科長である。
この像のことを知りたい。たとえば、「蹴上王者」の四文字は、何と呼ぶのだろう。それから、この像は、胸にポッカリ、穴があいている。どういう意図だろう。その制作のイメージも知りたい。
当時の学校新聞、生徒会誌『誠』を調べたが、記録は見つからない。昭和四十三年度の「職員会議録」を見たら、次の一文があった。
「記念品 約18万円。記念植樹 第二グランドに、もくせい」
職員会議録の記録者は、川内利一とある。早速、川内先生に問い合わせた。二日後。川内先生からご返事をいただいた。以下、その時の電話の要旨を書き留めたい。
「記念品、18万円は、蹴上王者の像にあてたものです。学生主任の、池谷利之先生と、井上さんのお宅にお願いにいきました」。
「それは分からない、というのが、現在の返事です。私(川内)の記憶では、たしか、『その読みは、どうぞ、ご自由に』というのが、井上さんの言葉だったと思います。ただし、あの時、同席の池谷さんには、その記憶はない、とのことです。
これは、私(川内)の推測ですが、「蹴上王者」という四文字は、井上さんの造語で、ボールを蹴る。あの青年像への美術家としてのイメージ表現ではないかと思います。
台座のプレートの、あの「蹴上王者」の文字も。書道の先生でなく、井出さん、ご本人の文字だと思います」。
------ -----
電話を受けながら、「その読みは、どうぞ、ご自由に」という。井出さんの言葉が強く心に残った。もし、そうだとすれば、井出さんは、「蹴上王者」の名前に、どんな命名のイメージを描いていたのだろう。
井出さんは、仏像彫刻家として、たとえば、「天上界、地上界」などの言葉に親しんでいただろうから、「サッカーの世界」という意味で。「蹴上界」を思い、「蹴上」に造語をしたのだろう。そして、サッカーの世界で、王者たれ、とおい願いで、「蹴上王者」という、四文字を用意したのだろう。
だから、井出さんにとって、「サッカーの世界で、王者たれ」という意味でなら、その呼び名は、「しょうじょうおうじゃ」でも、「けあげおうじゃ」でも、「けりあげおうじゃ」でも、こう呼ばなければという。制約の気持ちはない、ということだろう。
ただ、今回、この像の経緯をたどり。川内先生の話を聞く中で、呼び名のことで感じたことが、一つある。それは、井出さんの気持ちだ。
川内先生の記憶では、井出さんは。「その読みは、どうぞ、ご自由に」とのことだが、井出さんがいちばんいいと思う名前は、「蹴上王者」という、この四つの漢字そのもの。私が感じたのは、井出さんの、そんな気持ちだった。
なぜなら、「しゅうじょうおうじゃ」も、「けあげおうじゃ」も。耳から聞いただけでは、それがなんのことか分からない。その音からでは、「サッカー界の、王者」というイメージは湧かない。
その点、漢字四字の「蹴上王者」なら、そのものズバリである。私はそんな思いから、制作者の気持ちに、いちばん近い名前は、「蹴上王者」という。漢字四字の名前、強いて言うなら、「目で読む名前」がいい、と感じたのである。
話を、川内先生との電話の続きにもどそう。「胸に、ポッカリ、穴があいていますね。あの像の、制作意図。イメージはどうなんでしょうか。」
「それも、よく分からないのです。井出さんが亡くなってしまっていますから、聞き出しようがありません。
念のため、何人かの方々、今泉校長(17代)、萩原校長(18代)、永田校長(19代)、それから藤枝東に永く勤めた篠宮伸二先生にも聞いてみましたが、分かりません。
『胸に集中思いがそのままボールに乗り移っている』とか、『風を切って走る、そのスピード感の造形』とか、皆さん、いろいろなイメージで理解していますが、よく分からない、というのが正直なところのようです」。
------ -----
川内先生との電話の翌日、用務員の鈴木勇次さんと一緒に、蹴上王者の大きさを測ってみた。身長は、180センチ。ぽっかり空いた胸の穴は、直径十七センチ。サッカーボールの直径は、十七・五センチ。胸の穴にスポンとおさまる大きさである。「胸の思いが、そのままボールにのり移って」という解釈は、胸の穴とボールの大きさからは、説明がつくのだが、本当のところはどうなのか、残念ながら、答えは見つからない。
以上、「蹴上王者」について、製作の経緯、呼び名、造形イメージについてまとめてみた。この像が出来て今年で三十年。当時の記憶が乏しく、また、製作の井上さんのお考えを聞くこともできないので、判明しないこともある。本稿のいわば、「中間まとめ」ということになるだろう。
最後に、「蹴上王者」を書こうと思った、動機に触れておきたい。一つには、この像に関して、まとまった記録がないということだが、その他にも、いくつかのきっかけがあった。
一つは、今年(平成十年)の正月のサッカー選手権だ。ある新聞が学校紹介で「蹴上王者」の写真を載せた。その写真説明が、「蹴球王者」となっていた。「蹴球」と「蹴上」。字は見ているが、その世界は別だ。いうまでもないことだが、「蹴球」は、サッカーで、「蹴上」は、サッカーの世界のことだ。広さも、めざす目標も、「蹴上」の方がはるかに上だ。ここを間違えては、製作者の井出さんに申し訳ない。そう思ったのが一つのきっかけである。
もう一つは、ある追悼文集だった。もう一つはある追悼文集だった。「校長先生、こんな冊子がありましたから」。サッカー部の副部長、北島先生が一冊を持参した。それは、昭和四十年代、藤枝東高のサッカーを何度も全国一に導いた、長池實先生への追悼文集だった。そのタイトルが、「蹴上王者」だった。
寄稿者は全国から、六十二人。文字通り、サッカー界(蹴上)の、名だたる指導者ばかりである。この文集の編集委員、奥付(※)を、下に紹介しておこう。(写真4)
※本来の文集には、写真4として、「蹴上王者」編集委員・奥付 として画像が掲載されています。
------ -----
今年は、正月の選手権、十三年ぶりの国立競技場での活躍から始まって、九月の全日本ユース優勝とサッカー部が光りをあびた。
その活躍が引き金となり、また、前述のような、いくつかのきっかけが重なり、「蹴上王者」について、「おや、なぜだろう」と思うことの、いくつかをまとめることができた。
「蹴上王者」、記念の像は、今年で丁度三十年。全身うっすらと青く苔むして、昔も今も、変わらぬ勇姿で、サッカーボールを追っている。
職員文集「藤繚」第22号(平成10年発行)より